2 子規さん俳句鑑賞
平成30年3月「 春や昔 十五万石の 城下哉   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年3月の句は「春や昔十五万石の城下哉   子規」です。

季語は「春」(春)です。『子規全集』第二巻 「寒山落木 巻四」177頁(明治二十八年 春)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」43頁(明治二十八年 春)に掲載されている。前書きに「松山」と付されている。

伊予では子規を代表する句である「春や昔十五万石の城下哉」が子規記念博物館選句の子規さん俳句が始めて登場するとは思えず、慌てて平成15年1月からの現在までの百八十二句に当たってみたが該当句がない。まさに「真打登場」である。「正岡屋〜」と叫んでみたくなる。

明治28年春、日清戦争の従軍記者として出発予定だった子規が、出征前の3月14日から三日間、松山に帰省する。体調から判断して、故郷へ別れの旅立ちを告げたかったのであろうか。父の墓参も済ませ、遼東半島に旅立つ。

改めて、松平(久松)十五万石の親藩であるご城下の佇まいも維新後三〇年近く経つと明治の佇まいとなったことを痛感したが、後輩に当たる「松風会」の仲間との触れ合いに、尽きせぬ思いを語ったことだろう。

この句は「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身一つはもとの身にして」(『伊勢物語』)が下敷きになっているのだろうか。

道後生まれの筆者が子規さんにあやかっての一句

「春や春一遍産みし道後の湯泉(ゆ)  子規もどき」 

因みに、一遍智真が生まれたのは延応元年(1239)陰暦二月十五日である。おそらく、宝厳寺の建つ奥谷の早咲きの山桜は咲いていたのだろう。奥の谷の北には桜谷の地名が残っている。

道後関所番
平成30年2月 「 春寒き 机の下の 湯婆哉   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年2月の句は「春寒き机の下の湯婆哉   子規」です。

季語は「春浅き」(春)です。『子規全集』第三巻 俳句稿 246頁(明治三十二年 春)と第十二巻 随筆二「室内の什物」291頁(明治三十二年)に掲載されている。

ことしの如月は殊の外寒い。気象観測では平成に入ってから一番寒い「冬」らしい。明治32年当時といえば、暖房は火鉢と炬燵と湯婆(ゆたんぽ)と厚着くらいか。根岸の子規庵の寒々とした居室で、机の下にゆたんぽを置いて、文学活動に取り組む子規さんの姿が浮かんでくる。子規の病状は悪化し、左脚は曲がったままで伸びなくなっていたらしい。湯婆(ゆたんぽ)の暖かさは、家族の温もりでもあり、短歌革新に燃える子規自身の情熱でもあったろう。

随筆「室内の什物」で子規さんが挙げた品は下記である。

@軸一つ       「軸掛けて椿活たる忌日かな
A油畫の額一つ    「油畫極彩色や春の宿」
B水畫の額一つ    「雪の絵を春も掛けたる埃かな」
C写真版の額一つ   「古文に羅馬の春の残りけり」
D蓑一つ       「蓑掛けし病の牀や日の永き」
E笠一つ       「春雨のふるき小笠や霰の句」
F机一つ       「春寒き机の下の湯婆哉」
Gラムプ一つ     「暗き灯や蛙鳴く夜の写し物」
H絵巻物一つ     「絵巻物三月の部は花見なり」
I花瓶一つ      「投入の椿山吹調和せず」


子規さんにあやかって一句
「春寒き机の下の足温器   子規もどき」 

味気ない一句だが、書斎の机に向かって、膝に毛布を掛け、机の下には足温器を置いて、只今子規さん俳句の鑑賞エッセイを執筆している。
思い出した。子規さんの机は置き机で、左膝のあたる部分をくり抜いた専用の机であった。当方の机は、20年前の阪神淡路大震災で自宅が倒壊し、疎開先の大阪で急いで購入した安物の机である。「ゆたんぽ」を愛用していたが、妻を亡くしたこの冬からは「あんか」になり、「湯たんぽ」二つが押入れで冬眠中である。
「室内の什物」にはそれぞれ歴史があり、所有者(使用者)にとっては忘れがたい思い出がある。    道後関所番
平成29年1月「正月の人あつまりし落語かな    子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年1月の句は「正月の人あつまりし落語かな   子規」です。

明治28年(1895)といえば「紀元二千五百五十五年哉   子規」なる句を残している。季語は「正月」(新年)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」166頁(明治二十八年 新年)に掲載されている。

正月に子規が友人と一緒に落語を聞きに行ったという記述にはお目にかかっていない。が、上京以来、秋山真之や柳原極堂とよく寄席に通っていたし、江戸っ子である夏目漱石とは寄席がきっかけで親しくなったという逸話も残っている。

一世を風靡した三遊亭円朝師匠は明治二十八年には57歳で晩年期を迎えている。円朝師匠は子規にとってお気に入りの落語家であり、円朝師匠の言文一致の口述が近代文学に与えた影響は大きい。円朝を頂点とする落語は講談と併せて、正月にはなくてはならぬ演芸であったろう。

現存する上野の「鈴本亭」は、安政四年(1857年)開設された「軍談席本牧亭」まで遡れる老舗席亭であり、経営者鈴木家の(鈴)と本牧亭の(本)をとって鈴本亭と名付けられた由。子規も立ち寄ったかもしれない。
上京時には、上野「鈴本亭」か国立劇場演芸場には顔を出しているが、個人的には、落語は江戸、漫才は上方のフアンである。

子規さんにあやかって一句
「正月の人あつまりし伊予万歳    子規もどき」 道後関所番
平成29年12月「唐の春奈良の秋見て冬こもり   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年12月の句は「唐の春奈良の秋見て冬こもり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「冬こもり」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」361頁(明治二十八年 冬)と第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」110頁(明治二十八年冬)に掲載されている。

明治28年の句というと、子規にとっては、生涯でもっともドラスチックな一年であった。
春には志願して日清戦争の従軍記者となった子規は、中国に渡り、金州城や遼東半島の各地を訪ねている。講和条約の締結もあり、帰国の船中で喀血し、須磨で療養する。
小康を得て松山に帰郷し、夏目漱石との52日間の「愚陀仏庵」の生活を送る。10月帰京の途中奈良に立ち寄り、東大寺、興福寺、薬師寺、法隆寺を周る。子規の代表句の一つでもある「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、この時の句である。
ほとんど知られていないが「行く秋のわれに神なし仏なし」とか「無着天親その外の仏秋の風」に、俳句としての深みを思えるのは吾一人なのであろうか。

根岸に戻ってからの子規は、亡くなるまで病臥の人となり、旅に出ることは叶わなかった。まさに最後の閃光とでもいうべき印象的な一年間の締めくくりの一句と言えよう。

ここで云う「唐」とは、中国大陸・朝鮮半島を指している。

子規さんにあやかって一句
「江戸の春京の秋見て冬安居   子規もどき」

(補足)早春に妻を喪った。春には上京して櫻を追い求め、秋には上洛して紅葉を愛でるのが老夫婦の楽しみであった。夏は上高地、冬は九州の温泉めぐりであった。この冬は旅する気分にもならず、炬燵を友として冬安居に入ることになるのだろうか。
平成29年11月「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年11月の句は「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし   子規」です。

明治31年(1898)の作品で、季語は「芭蕉忌」(冬)です。『子規全集』第三巻 俳句稿226頁(明治三十一年 冬)に掲載されている。

松尾芭蕉については解説の必要はなかろうが『広辞苑』の説明を念の為掲載する。

「江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。伊賀上野に生まれ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。(1644〜1694)」

『ホトトギス』誌の明治31年12月号の「芭蕉忌・選者吟」に七句掲載されている。
 
 芭蕉忌に何の儀式もなかりけり
 旅に病んで芭蕉忌と書く日記哉
 芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし
 蒟蒻に発句書かばや翁の日
 無落款の芭蕉の像を祭りけり
 芭蕉忌や其角嵐雪右左
 芭蕉忌や吾に派もなく伝もなし

子規は、没後二百年の芭蕉が遺した句のうち秀句は僅かで、多くは悪句、駄句の類と談じているが、子規もまた没後百年を経て「遺した句のうち秀句は僅かで、多くは悪句、駄句の類」とされる。もっとも子規崇拝者は松山には多いが、彼らに対しては、子規の句「芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし」の芭蕉を子規に詠みかえて、煎じて飲めばよかろう。

七句を通して読めば、子規は明らかに芭蕉翁に重ねており、「俳諧の開祖 芭蕉」と「新俳句の創造者 子規」の対比と理解するのは、評者の読み過ぎだろうか。

子規さんにあやかって二句

 「子規忌過ぐ子規子に媚びる人いやし   子規もどき」
 「糸瓜忌や虚子碧梧桐右左         子規もどき」    道後関所番
平成29年10月「柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年10月の句は「柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「柿」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」325頁(明治二十八年 秋)、第三巻 俳句三「獺祭書屋俳句帳抄」633頁(明治二十八年 秋)、第十一巻 随筆一 「病床六尺」369頁 明治三十五年、 第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」105ページ(明治二十八年秋)に掲載されている。

(注)
1)「前書き」に若干の異同がある。
第二巻「寒山落木」では「法隆寺の茶店に憩ひて」
第二十一巻「病余漫吟」では「法隆寺茶店にて」

2)第十一巻「病床六尺」の文章は下記である。
柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺 
この句を評して「柿喰ふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは何故いはれ無かったであらうと書いてある。これは尤の説である。併しかうなると稍句法が弱くなるかと思ふ。

子規の代表的な俳句であり、松尾芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」に次いで、日本人の誰もが記憶し、口にする句です。
書きたいことは山ほどありますが、子規さんに敬意を表して、今回は、鑑賞エッセイと「子規もどき俳句」は載せないことにしました。御了承ください。
平成29年9月「碌堂といひける秋の男かな   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年9月の句は「碌堂といひける秋の男かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」282頁(明治二十八年)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」80ページ(明治二十八年秋)、同じく第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」120ページ「留送別会」(明治二十八年)に載っています。
「寒山落木」での「前書き」は「碌堂に戯る」、「病余漫吟」では「碌堂におくる」になっています。

同時期に碌堂を詠んだ二句を対句として鑑賞すると、子規と碌堂(柳原極堂)の幼馴染の交友ぶりが彷彿とします。
   碌堂に別る 
  秋三月馬鹿を尽して別れけり
   碌堂に戯る
  碌堂といひける秋の男かな 

 明治二十八年「愚陀仏庵」に寄寓した子規の元に松風会の会員が日毎夜毎集まります。特に熱心だった数人は「日参組」と呼ばれ、その中に碌堂(柳原極堂)も入っています。

この句は、明治二十八年十月十二日、帰京する子規の為に、松山二番町の「花廼屋」(はなのや)で送別会を開催した際、子規が参会者十七名の俳号を詠み込んだ句を作る。この句は、そのうちのひとつです。「留送別会」に書き留めている。

「秋の男」といえば「白秋」である。透明な輝きもあり、惜別にあたっての寂しさも残る。子規、漱石、極堂は慶応二年生まれである。十七名の松風会員の最後を碌堂(極堂)の句で締めたのは、後に残った松風会の活動を碌堂(極堂)に托したのではあるまいか。

同席した漱石への句も披露しておきたい。
   石女(うまずめ)の蕣(むくげ)の花に嗽(うがひ)かな

子規さんにあやかって一句

 妻を偲ぶ
「春雅温妙といひける女かな  子規もどき」  道後関所番
平成29年8月「水草の花まだ白し秋の風   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年8月の句は「水草の花まだ白し秋の風   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋の風」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」303頁(明治二十八年)、第三巻 俳句三「獺祭書屋俳句帖抄」637頁(明治二十八年 秋)、第十三巻 小説紀行 散策集 613頁、第二十一巻 草稿ノート 病余漫吟(明治二十八年 秋)86頁に掲載されています。前書きは「道後公園」。

この句の初出は「散策集」です。

明治二十八年四月、新聞「日本」の記者として日清戦争に「従軍」し、五月金州から帰航時発病、予後郷里松山に帰郷。52日間愚陀仏庵で漱石と起居を共にする。9月20日から10月7日にかけて五回、松山近郊を松風会のメンバーと吟行する。

「水草の花まだ白し秋の風」は最初の散策時で、同行は柳原極堂(碌堂)である。コースは、愚陀仏庵から玉川町を抜けて、石手川を歩き石手寺で遊ぶ。帰途は、道後に向かい、湯築城址の外堀を巡って持田に出る。

道後公園(湯築城址)は「御竹薮(おたけやぶ)」と呼ばれ一帯は竹林であった。端には、睡蓮の花だろうか、白い水草の花が咲いている。

書き出しの文章は次のように始まる。
「今日はいつになく心地よければ折柄来合せたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出づる程秋の風のそぞろに背を吹てあつからず玉川町より郊外には出でける見るもの皆心行くさまなり」

子規さんらしい写実の描写である。

子規さんにあやかって一句

 送り火 
「亡き妻のうしろ姿や秋の風   子規もどき」  道後関所番
平成29年7月 「夏痩せて大めし喰ふ男かな  子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年7月の句は「夏痩せて大めし喰ふ男かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「夏痩」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」227頁(明治二十八年)、第十八巻 書簡一 内藤素行宛書簡六月三十日付 555頁、第二十一巻 草稿ノート 病余漫吟(明治二十八年)57頁に掲載されています。

出典により漢字等の使い方が少し違っています。子規博句は「寒山落木」に拠っています。
@「寒山落木」では「夏痩せて大めし喰ふ男かな」
A「書簡」では前書(追々元気づき申し候)があって「夏やせて大めし喰ふ男哉」
B「病余漫吟」では「夏やせて大めし喰ふ男哉」

この句は明治二十八年八月三十日付、内藤素行(鳴雪)宛書簡に添えられた句です。
子規が日清戦争の従軍記者として大陸に渡り帰国の船中で喀血し神戸病院に入院したのが5月22日である。静養の為松山に戻ったのが8月25日である。虚子、碧梧桐が克明に記した「病床日誌」には子規の大食いの記述があるので、回復とともに「食いしん坊」になっていったのであろう。この句は、神戸や須磨の病院での子規自身を呼んだ滑稽句、自嘲句でもあろう。読む人にとっては、子規の快復振りが目に浮かぶ句であったろう。夏痩せというより病痩せであるが・・・

子規さんにあやかって一句

 弥生四日に妻を亡くして百日余
 「夏痩せてバイキング喰ふ寡(やもめ)かな  子規もどき」  道後関所番
平成29年6月 「温泉上がりに三津の肴のなます哉   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年6月の句は「温泉上がりに三津の肴のなます哉   子規」です。

明治23年(1890)の作品で、季語は「冲膾」(夏)です。『子規全集』第三巻 俳句三「寒山落木 拾遺」494頁 (明治二十八年)と第十八巻 書簡一 165ページに掲載されています。

明治二十三年八月三日付け「大谷藤治郎(是空)」宛書簡を掲載する。

「此度愈鉄窓の方角士を辞し大阪の大川町の大谷といふ身故まづ大三字といふ役に栄転せられたる処欣抃(きんべん)々々 然るに又もや病魔に襲はれ給ふよし不欣抃(きんべん)々々(差引零となる之を是空といふ) 早く来給へ御馳走して待てゐるよ
    温泉上がりに三津の肴のなます哉 」

子規にとっての「親友」である是空に、ふるさと道後の温泉とふるさと料理で病気の友を励まそうとする、子規の優しい気持ちが感じられる句である。

今も同様であるが、近海物は三津であり、伊予節に「三津の朝市 道後の温泉」とある。

子規さんにあやかって一句
 
「温泉上がりに伊予のみかんと団子哉 子規もどき」 道後関所番
平成29年5月 「すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年5月の句は「すよすよと舟の側飛ぶ蛍かな  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「蛍」(夏)です。『子規全集』第四巻 俳句二「寒山落木」248頁 (明治二十八年 夏)と第二十一巻 草稿ノート67ページに掲載されています。

明治二十八年の蛍の季節といえば6月頃か、子規は従軍記者として大陸に渡り、帰国時船中で喀血し神戸病院に入院したのが5月23日、須磨保養院に移ったのが7月22日であるから、この句が作られたのは神戸であり神戸病院のベッドかもしれない。

子規は、生死のさまよう中で、蛍が闇の中を進む小舟の側を「すよすよ」と飛んでいく幻想をみたのかもしれない。。蛍は子規、あるいは子規の魂かもしれない。飯田蛇笏が芥川龍之介の死を悼み詠んだ「たましひのたとへば秋のほたるかな」を思い出した。

「すよすよと」という言葉は『日本国語大辞典』にもないし『広辞苑』にも載っていない。子規の造語かと思い探索を始める。
「すよすよとのびて淋しや女郎花」(寒山落木巻二 明治二六年秋)
「寒燈明滅小僧すよすよと眠りけり(寒山落木巻二 明治二九年冬)

寒燈明滅の「すよすよ」は、「すやすや」と「そよそよ」の合体か。女郎花の「すよすよ」は「なよなよ」の感じもある。とすると、蛍の句は・・・・・
明治期、松山では「すよすよと」という表現があったのだろうか、非常に興味あることばである。ぜひ、ご意見をお寄せいただきたい。

子規さんにあやかって一句
 妻の死を悼む
「すよすよと吾の側飛ぶほたるかな 子規もどき」 道後関所番
平成29年4月 「鶯の籠をかけたり上根岸    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年4月の句は「鶯の籠をかけたり上根岸  子規」です。

明治30年(1897)の作品で、季語は「鶯」(春)です。『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」25頁 (明治二十八年 春)に掲載されています。

同じ時期に鶯の句を十数句詠んでいます。

鶯や寺子屋に行く道の藪
楢の木や鶯来鳴く家の北
鶯のうたゝ眼白の眼を妬む
木さへあれば鶯啼くや上根岸
鶯の松になく也寛永寺
我病んで鶯を待つ西枕
梅が枝にあれ鶯が鶯が
鶯の籠をかけたり上根岸
寺町の鶯鳴くや垣つたひ
根岸行けば鶯なくや垣の内
十日ばかり鶯遅し椎の雨

現在の根岸から想像もつきませんが、根岸は江戸時代から「初音の里」と呼ばれるほど鶯が多く、子規庵のあたりは「鶯横町」(うぐいすよこちょう)と呼ばれていたそうです。上記11句から汲み取れる情景は、まさに鶯の里と云えそうです。

明治30年頃は子規は病臥の状態でしたが、子規庵の軒に小鳥籠をかけ、鶉を飼ったり、雀を飼ったりしていたようです。鶯も籠の入れていたことが、この句から分かります。

道後の拙宅の庭にも晩春には里山から鶯が引っ越してきて「ほ ほけきょう」の美声を着かけてくれます。子規も、鶯の声を聞きながら、虚子・碧梧桐と語りあったのでしょうか。

鶯を捕まえたことはないのですが、雀のように、餌でおびき寄せて、籠をパタンと倒して捕えるのでしょうか。ご同輩の子供の頃の話を聞かせていただけませんか。雀は籠に入れても怯えて餌を食べようとしないので、夕方には逃がしてやったものですが・・・・・

子規さんにあやかって一句
「鶯の鳴く方一里道後村  子規もどき」 道後関所番
平成29年3月 「雛もなし男許りの桃の宿    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年3月の句は「雛もなし男許りの桃の宿  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「雛」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」180頁 (明治二十八年 春)、第十二巻 随筆二 陣中日記 77頁(明治二十八年)、二十一巻草稿ノート 病余漫吟 44頁 (明治二十八年春)に掲載されています。

この句の背景については子規自身が詳しき書いています。

1)「寒山落木」
 日本新聞社楼上に従軍の酒宴を張りて吾を送らる折ふし三月三日なりければ雛もなしといふ題を皆々詠みけるにわれも筆を取りて 二句
 雛もなし男許りの桃の宿
 首途(かどいで)やきぬぎぬをしむ雛もなし

2)「陣中日記」
 正午の頃同僚十余人酒を置て吾を送る。恰も新暦の節句なれば雛もなしといふ題にて人々句を作るに
 雛もなし男許りの桃の酒  
 首途やきぬぎぬをしむ雛もなし
などわれも戯る。

3)「病余漫吟」
 雛もなし男はかりの桃の宿

句に「桃の宿」と「桃の酒」の二種あるが、日本新聞社での送別会の句は「雛もなし男許りの桃の酒」であって、のちにこの句を「桃の宿」として、出発に際しての一夜を「桃の宿」で過ごしたという俳句的虚構にまとめあげたのであろう。もっとも「男許りの桃の宿」では送別の余情はまったく感じられないのだが・・・

日本新聞社壮行会の参加者は福本日南、中村不折、仙田土仏、石井露月、佐藤紅緑、諫早(小林)李坪、斉藤信の7名。
新橋駅から3月3日16時10分発の汽車で広島に向かう。前途を暗示するかのように大雪であった。4日、大阪着。5日、夜21時45分発にて広島に向かい、6日、正午に広島に到着。

子規さんにあやかって一句

 昭和33年3月大学を卒業す 
「桜散る男許りの傘寿会  子規もどき」 道後関所番
平成29年2月 「荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成29年1月の句は「荷を解けば浅草海苔の匂ひ哉   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「海苔」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四」179頁 (明治二十八年 春)、第十五巻 俳句会稿「明治二十八年二月十七日於気尾井坂公園 第三回十二人(大会)従軍送別」(明治二十八年)、二十一巻草稿ノート「附明治二十八年俳句草稿補遣」135頁 (明治二十八年春)に掲載されています。

表題にもある通り、日清戦争の従軍記者として大陸(金州、旅順)に出かけることが決まった子規の為に、明治2年2月17日、紀尾井坂公園で送別句会が開催された。総勢十二人(鳴雪・子規・松城・爛腸・酒竹・古白・非風・墨風・可全・虚子・碧梧桐・藪鶯)。

紀尾井坂公園は現在の清水谷公園付近でしょうか。明治11年、明治の元勲 大久保利通が島田一郎らに襲われた「紀尾井坂の変」のあった場所の近くです。個人的には勤務先の東京支社が赤坂に在り、赤坂見附から清水谷公園付近は昼も夜も交遊の場所でした。公園の中に東屋があったのでしょうか。ご存知であればご教示ください。

句意は、荷を解いた瞬間、浅草海苔の匂いがふわっと広がったという光景でしょうか。浅草や日本橋にも近い根岸に住む子規さんの句としては意外な感じです。伊予で荷を解いたのであれば、浅草海苔の匂い、江戸の匂いに共感できるのですが・・・・・

「海苔」の題で下記の句が詠まれています。

「海苔焼て曽我物語聞かばやな   酒竹」
「海苔粗朶の干潟に残る春日哉   碧梧桐」
「此庵に人あり海苔の匂ひかな   松城」
「海苔舟や七砲台の四日月     非風」
「雪晴れや海苔船並ふ羽田沖    不明」
「初旅のわらじにかゝる海苔の味  不明」 
「ヌッと過ぐ海苔干す露地の白帆哉 不明」

翌月の3月3日、子規は新橋から汽車で大阪に向かい、4日大阪で一泊、6日に広島に着く。14日には松山に8度目の帰省をしている。子規が第二近衛師団に従って宇品を出発したのは4月10日であった。

子規さんにあやかって一句
  
「荷を解けば瀬戸の蜜柑の匂ひ哉  子規もどき」 道後関所番
平成29年1月  俳句の盛運を祝す「蓬莱に俳句の神を祭らんか    子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年12月の句は「蓬莱に俳句の神を祭らんか   子規」です。前書きは「俳句の盛運を祝す」とあります。

明治29年(1896)の作品で、季語は「蓬莱」(正月)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻五 395頁)に掲載されています。

「蓬莱」(ほうらい)は三神山の一つ。中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山。蓬莱山。[史記秦始皇本紀]であるが、ここでは、新年の祝儀に三方の盤上に白米を盛り、上に熨斗鮑のしあわび・伊勢海老・勝栗・昆布・野老ところ・馬尾藻ほんだわら・串柿・裏白・譲葉・橙・橘などを飾ったもの。年賀の客にも饗した。蓬莱飾(ほうらいかざり)を指す。[広辞苑]

句意は、俳句の盛運を祝して、蓬莱飾りに俳句の神を祭ろうという新年の決意であろう。明治29年(1896)は、子規にとって俳句界に手ごたえを感じる年であり、同じ年頭に「今年はと思ふことなきにしもあらず」とも詠んでいる。

「発句始」には松山から帰省中の夏目漱石が出席、第二回運座から軍医学校長森鴎外が来会、高浜虚子、河東碧梧桐、石井露月、佐藤紅緑の「子規門四天王」ら若手が台頭し、「日本派俳句」が飛躍の年を迎えることになる。

もっとも子規自身の健康状態は、28年松山での療養生活を切り上げて上京してから快復しておらず、歩行はままならず、根岸の子規庵での病臥の状態が継続している。

「蓬莱」の句は縁起がよく、毎年の年初には数句詠んでいる。

明治二五年
簑笠を蓬莱にして草の庵
蓬莱の山を崩すや嫁が君
蓬莱の松にさしけり初日の出

明治二六年
動きなき蓬莱山の姿哉
蓬莱の上にしたるる柳哉
蓬莱に我身ちぢめてはいらうよ

明治二七年
三宝に東海南山庵の春
蓬莱に橙の朝日昇りけり
蓬莱や南山の蜜柑東海の鰕
蓬莱の山も動かぬ代なりけり
歯朶の羽蓬莱鶴の如くなり
大内は蓬莱山の姿かな
蓬莱に似たり小窓の松の山
君か家は蓬莱橋をかざし哉

明治二八年
蓬莱に貧乏見ゆるあはれなり
鼠どもの蓬莱をくふてしまひけり
蓬莱に喰ひたきものもなかりけり

明治二九年
蓬莱の小く見ゆる書院かな
蓬莱の陰や鼠のささめ言
蓬莱にすこしなゐふる夜中哉
鶏鳴いて蓬莱の山明けんとす
蓬莱に俳句の神を祭らんか

明治三〇年
三宝に蓬莱の山静かなり
蓬莱のうしろの壁を漏る日哉
大なる蓬莱見ゆる町家哉
蓬莱に根松包むや昔ぶり
蓬莱や上野の山と相対す

明治三一年
蓬莱にテーブル狭き硯哉

明治三二年
かたよせて蓬莱小し梅がもと
蓬莱に一斗の酒を盡しけり
蓬莱の蜜柑ころげし座敷哉
蓬莱の一間明るし歌かるた
蓬莱に我は死なざる今年哉
蓬莱に我生きて居る今年哉
蓬莱のかち栗かちる七日哉
蓬莱にくふべきものを探りけり
蓬莱や名士あつまる上根岸
蓬莱の小さき山を崩しけり
蓬莱の歯朶踏みはづす鼠哉
蓬莱や襖あけたる病の間

明治三三年
蓬莱やふぶきを祝ふ吹雪の句
蓬莱に鼠のうからやから哉
蓬莱の鼠に崇る疫かな

明治三五年
蓬莱に家越車や松の内

ところで、子規さんが詠む「俳句の神」とは一体どのような神なのだろうか。芭蕉か蕪村か天神か八幡か、それとも・・・ 遊行聖一遍、西行ではあるまい。

子規さんにあやかって一句
  
 道後温泉の盛運を祝す
「蓬莱に出雲の神を祭らんか    子規もどき」 道後関所番
平成28年12月   「煤拂や神も仏も草の上   子規」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年12月の句は「煤拂や神も仏も草の上   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「煤拂」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(357頁)、第四巻 俳論俳話一 「俳句二十四體 即興體」(417頁)、第十六巻 俳句選集 「新俳句 冬の部」(363頁)、第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年冬」(109頁)に掲載されています。

「煤拂」の句を子規は明治26年に12句、28年には9句詠んでおり、明治二二年の「煤はらひしてくる年のまたれけり」が「煤拂」としては初出である。俳句としては初心者の句でほほえましい。

〇明治二二年
煤はらひしてくる年のまたれけり

〇明治二五年
煤拂のほこりの中やふじの山

〇明治二六年
鼻水の黒きもあはれ煤拂
南無阿弥陀仏の煤も拂ひけり
牛はいよいよ黒かれとこそ煤拂
煤拂のほこりを迯(逃)て松の鶴
煤拂のほこりに曇る伽藍哉
煤拂ひ鏡かくされし女哉
来あはした人も煤はく庵哉
梢から烏見て居る煤拂ひ
煤拂て金魚の池の曇り哉
煤拂て香たけ我に岡見せん
煤拂のありともしらず今年竹
煤拂や竹ふりかさす物狂ひ

〇明治二七年
該当句なし

〇明治二八年
煤拂の門をおとなふ女かな
煤拂や神も仏も草の上
煤はくとおぼしき船の埃かな
煤はいて蕪村の幅のかゝりけり
煤はきのこゝだけ許せ四畳半
煤はらひ又古下駄の流れ来る
大佛の雲もついでに煤はらひ
佛壇に風呂敷かけて煤はらひ
 奈良
千年の煤もはらはず佛だち

煤拂いの情景が浮かぶが、年末の大掃除は、旧家では例年12月13日から始まった。まずは神棚、仏壇から始めた。子供時代の記憶では、裏庭から竹を切って笹を束にしての作業なので、男衆が担当していたように思う。子規さんの見た光景も同じだろう。

神棚と仏壇は別の部屋に祭られているが、小春日和だったのだろうか、庭の草の上に移動させて煤拂をしたのであろう。多くは「佛壇に風呂敷かけて煤はらひ」の方が多かったと思われる。

最近では神社仏閣城郭の煤拂いは「季節の風物詩」としてTVで放映されることが多い。こゝ松山の道後温泉では、12月上旬に温泉本館と「椿の湯」が一日臨時に休館して屋根や軒下のほこりを払っている。

子規さんにあやかって一句
     
   「煤拂や半寿の年を了へにける  子規もどき」  道後関所番
平成28年11月   「汽車此夜不二足柄としぐれけり   子規」


子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年11月の句は「汽車此夜不二足柄としぐれけり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「時雨」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 冬」(365頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年冬」(113頁)に掲載されています。「病余漫吟」では「汽車この夜不二足柄としくれけり」と表記されています。

この年「時雨」の句を40句詠んでおり、そのうち下の句「しぐれけり」は7句です。「蝉時雨」「袖の時雨」などの単語もありますが、一般には、秋の末から冬の初め頃に、降ったりやんだりする雨のことで、子規にとって、健康にすぐれず、気分の動揺があり、「時雨」の句が多くなったのかなとも考えられます。

今月も明治28年の句が続きます。病気療養で8月25日に帰郷し、松山中学の英語教師として勤務していた親友夏目漱石の下宿「愚陀仏庵」に別れを告げ、10月31日半年ぶりに東京の根岸の自宅(現在の子規庵)に帰宅します。このときの心境は「行く秋を生きて帰りし都哉  子規」であったでしょう。

10月30日、大阪を13時7分発の汽車で発ち、翌31日8時15分に新橋に着いています。同じ車中で「后の月足柄山で明けにけり」「朝寒の風が吹くなり雪の不二」の句を詠んでいます。大阪〜東京間が19時間、老生の学生時代は10時間、現在は3時間余といったところですが、いまや大阪〜東京間で旅情を感じる人は殆どいなくなったようです。

丹那トンネルの開通は昭和9年(1934)で、子規の時代は現在の御殿場線であり、箱根をぐるりと回ってである。東京在勤中に家族で「冨士屋ホテル」に宿泊して足柄山に登ったが富士山の眺望は見事であった。

「此夜」は旧暦9月13日の「十三夜」で、足柄山あたりで夜が明け、不二(冨士)が雪をいただいて月光に映えているといった風情か。まさに子規の三句で、墨絵の世界を髣髴とさせてくれる。この後、子規は根岸での横臥の日常生活が待っており、二度と雄大な冨士を眺めることはなかった。「汽車此の世不二足柄としぐれゆく」とでもいうべきか。

子規さんにあやかって一句
     
   「歩き遍路岩屋窪野もしぐれけり  子規もどき 」  道後関所番
平成28年10月 
       松山を立ち出づる時 
    「行く秋のまた旅人とよばれけり   子規」



 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年10月の句は「行く秋のまた旅人とよばられり   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「行く秋」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(276頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年秋」(77頁)に掲載されています。

今月も明治28年の句が続きます。今回は、漱石が松山中学校外国人教師が寄宿した「愛松亭」から親友夏目漱石の下宿「愚陀仏庵」に身を寄せた8月27日から52日間の共同生活から別れを告げ上京する節の句です。

「愚陀仏庵」では、俳句結社「松風会」会員の句作指導をし、漱石や柳原極堂らと市内や郊外を散策し、子規が目指そうとする俳句を伝えていきます。『散策集』が置き土産になりました。

同年10月19日に子規は上京することになるが、それに先立ち、10月12日の午後、二番町にある「花廼舎」の広間で漱石や松風会会員17名によって送別会が開かれた。この席で「行く秋のまた旅人とよばれけり」が詠まれた。

17日に子規は帰京のため三津浜に向かい、久保田回漕店で送別句会を開いている。翌18日の午後、柳原極堂ら10名が三津浜まで見送りに来て、子規のいる客室で句作や揮毫を行った。この時の留別の句が「十一人一人になりて秋の暮   子規」です。

19日、松山を発った子規は、宇品、須磨、大阪、奈良を巡って上京。その間、法隆寺では有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を残している。31日、新橋停車場にて、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪の出迎えを受けて根岸の子規庵に帰った。子規にとって最後の帰郷と長旅であり最後に目にした松山となった。

「行く秋の」はふるさと松山への惜別の思いでしょうか。子規は学生時代から旅に出ることも多く明治28年には遠く遼東半島まで新聞「日本」の「従軍記者」として出かけます。俳句を通して、西行や芭蕉と同じ「旅人」と理解したのかもしれません。もっとも一遍のように「非定住」に徹しきった「人生の旅人」になりきれなかったのは時代がなせる思想と行動でしょうか。

明治28年の季語「行く秋」の句を取りまとめておきます。これだけ「大量生産」されると佳句の醍醐味も薄れませんか。いやはや。

○余戸手引松     「行く秋や手を引きあひし松二本」
○感あり       「行く秋の我に神無し佛無し」
○松山を立ち出づる時 「行く秋のまた旅人と呼ばれけり」
○客舎に臥して    「行く秋の腰骨いたむ旅寝哉」
○三月堂       「行く秋や一千年の佛だち」
○法隆寺       「行く秋をしぐれかけたり法隆寺」
○法隆寺       「行く秋を雨に気車待つ野茶屋哉」
○帰菴三句      「行く秋を生きて帰りし都哉」
           「行く秋の死にそこなひが帰りけり」
           「行く秋や菴の菊見る五六日」

子規さんにあやかって一句
     定年で東京を去る時
   「行く秋のまた伊予猿とよばれけり   子規もどき 」 道後関所番
平成28年9月 
       漱石寓居の一間を借りて 
    「桔梗活けてしばらく仮の書斎哉   子規」


 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年9月の句は「桔梗活けてしばらく仮の書斎かな   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「桔梗」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(221頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治28年秋」(97頁)に掲載されています。

ここ数ヶ月、明治28年の句が続きます。今回も、漱石が松山中学校外国人教師が寄宿した「愛松亭」から「愚陀仏庵」に引っ越した下宿に、結核の療養を兼ねて帰郷した子規が転がり込みます。

ここでの50数日の共同生活から、俳句の革新の機運が生まれ、子規の同志たちが誕生することになります。

「桔梗活けて」の上五句に、この俳句の良さがこめられています。「桔梗」の花言葉は
「気品」「誠実」「清楚」「変わらぬ心」「優しい愛情」といった言葉です。だから子規さんが桔梗を活けたとは思いませんが、漱石との変わらぬ友情、漱石の優しい思いやり、書斎に相応しい「気品」、「清楚」な部屋の佇まいが感じられます。子規さんは、片付けの後、ごろりと横になって、ふるさと松山の良さを感じ取ったに違いありません。

愚陀仏庵復元の市民運動が何度となく起こり、消え失せ、またよみがえっています。老生はこの運動から一歩下がって、外国人教師たち【ノイス(Noyes)、ターナー(Turner)、ホーキンス(Hawkins)、ジョンソン(Johnson)】が住み、松山にアメリカの文化を伝えた「愛松亭」の復元の呼び掛けています。「愚陀仏庵」と「愛松亭」が直径500メーターゾーンで復元できればと願っています。

子規さんにあやかって一句
  
   「桔梗活けてしばし野菊の君想ふ 子規もどき 」 道後関所番
平成28年8月 
       松山城  「秋高し鳶舞ひ沈む城の上   子規」


 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年8月の句は「松山城  秋高し鳶舞ひ沈む城の上   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「秋高し」(秋)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 秋」(281頁)と第十三巻 小説紀行「散策集」明治28年9月20日」(609頁)、新聞「日本」明治31年9月21日号に掲載されています。

『散策集』によれば、明治28年9月20日午後、「今日はいつになく心地よければ折柄来合せたる○堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出づる程秋の風のそゞろに背を吹てあつからず 玉川町より郊外には出で」石手寺、道後公園を散策する。

 杖によりて町を出づれば稲の花
 秋高し鳶舞ひ沈む城の上
 大寺の施餓鬼過ぎたる芭蕉かな
 秋晴れて見かくれぬべき山もなし

と四十五句の俳句を詠んでいる。来年出版する『子規と松山 ふるさと事典』(仮称)では、9月20日の項は老生が執筆しているので詳細は割愛したい。

明治26年の句に 秋高し鳶飛んで天に到るべうがある。まさに有頂天というか鳶頂天の句だが、明治28年の句は写生句でありはるかに優れている。

子規さんにあやかって一句
  
   「秋高し松山城の曲輪かな   子規もどき 」 道後関所番

平成28年7月 
       虚子の東帰にことづてヽ東の人々に申遣はす  
  「ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」



 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年7月の句は「虚子の東帰にことづてヽ申遣はす  ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「昼寝」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(229頁)と第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治二十八年 夏」(59頁)に掲載されています。

 子規博懸垂幕俳句ですが3ヶ月連続して、28年夏の子規の須磨での療養時の句を撰んでいます。正直「仏の顔も三度まで」の気持ちです。竹田美喜館長、ごめんなさい。

明治28年5月は「母の東へ帰りたまふに 
            この二日五月雨なんど降るべからず  子規」

明治28年6月は「神戸市錬卿寓居にて  
            夏山にもたれてあるじ何を読む   子規 」

明治28年7月は「虚子の東帰にことづてヽ東の人々に申遣はす 
            ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと  子規 」

 
 子規の須磨での療養の記述は5.6月の鑑賞エッセイと重複するので割愛します。虚子の行動に絞って記述します。全体像がお分かり頂けると思います。内容は、和田克司編「子規の一生」(『子規選集M』増進会出版社2003)に拠る。

「須磨の浦わ」の「浦わ」は、『広辞苑』のよれば「浦曲」「浦廻」で、@海べの曲がって入りこんだ所。A海岸をめぐりながら進むこと。

 
○明治28年5月27日(月)
京都で鼠骨とともにいた虚子のもとに、陸羯南から子規の入院先の神戸病院へ行くように書簡が来て、虚子が来る。碧梧桐、神戸病院の病床のできごとを少しも漏らさず書き残しておこうと、虚子と交代で日記をつける。

○明治28年6月13日(木)
虚子は松山に帰る。

○明治28年6月中
虚子、神戸に戻る。。

○明治28年7月1日(月)
虚子、鳴雪、五州、碧梧桐らと運座。「はれの日」と題して須磨の子規に送り講評を乞う。

○明治28年7月9日(火)
母八重と碧梧桐は東京に帰る。虚子が残る。

○明治28年7月23日(火)
須磨保養院に移る。8月20日まで過ごす。虚子は子規を送って行き、二、三日滞在する。

○明治28年7月23日(火)〜25日(木)中
虚子とともに松原を通って波打ち際に出、散歩した。

○明治28年7月25日(木)
虚子、須磨保養院の子規と別れ、帰京。本郷台町二番地、香山方に寓居。虚子の帰京に際して「贈るべき扇も持たずうき別れ」を詠む。

子規さんにあやかって一句
  
   「遍路の東帰にことづてヽに級友たちに申遣はす 
    「ことづてよ道後の温泉にて冬篭り  子規もどき 」        道後関所番
平成28年6月  
       神戸市錬卿寓居にて  「夏山にもたれてあるじ何を読む   子規 」


 
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年6月の句は「神戸市錬卿寓居にて  夏山にもたれてあるじ何を読む   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「夏山」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(240頁)と第十八巻書簡一 明治二十八年(561頁)、第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治二十八年 夏」(64ぺ頁)に掲載されています。

この俳句の背景は子規自身が河東秉五兄(碧梧桐)宛書簡に詳細に書かれています。(7月22日付)。

 「拝啓 御在神中は一方ならぬ御看護にあづかり御厚志の段奉謝候
 虚子より承候へば御帰京後御病気の由容体によりては入院の上御療治ある方後来のため よろしきかと存候 竹村尊兄へも其事 申上置候 兎に角にふぐり大事と御保養可被成候
 地図四枚落掌御手数奉謝候 近来同図は版磨滅致し候へども新地図は多少の修正ありて 鉄道線路など大方出居候は愉快に存 候
 小生は多分明日退院と決定致居候 併し天気都合にて延引いたすべく候
 一昨日より散歩をはじめ昨日は無始無終楼上に半日をくらし申候 主人扇を出して一句 をと請はれて病筆ふるへながら 
   夏山にもたれてあるじ何を読む  
 など即景を興し申候 御一笑にそなへ候
 小生近来来雲百句をはじめ候 一首々々の苦吟却て興味多く覚え候大略 怱々
  七月二十二日
   秉五兄 几下 

 すべては子規の碧梧桐宛書簡書簡に尽きるが、若干の説明を付しておきたい。

 明治28年7月21日に神戸病院に友人の竹村鍛(きとう)を訪問した時の句であることがわかる。竹村鍛は河東秉五兄(碧梧桐)の実兄で、当時神戸に住んでいた。竹村の漢詩文の号は錬卿(れんきょう)であった。当日、人力車で虚子とともに鍛の家を訪ね半日を過ごす。その節に、鍛が扇を出して子規に一筆書いた句が「夏山にもたれてあるじ何を読む」である。

 夏山は窓越から見える六甲山系であろうか。子規は二十四日に神戸病院を退院、そして須磨保養院に移った。8月20日須磨保養院を退院、25日松山に帰り湊町4丁目の大原恒徳宅に入る。松山中学校の教師であった夏目漱石の寄宿していた「愚陀仏庵」に落ち着いたのは27日からであった。 」   

子規さんにあやかって一句
  
   「松山中学校明教館にて   城山にもたれて子規子夏季講話   子規もどき」    道後関所番
平成28年6月   神戸市錬卿寓居にて 「夏山にもたれてあるじ何を読む   子規 」

 
子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年6月の句は「神戸市錬卿寓居にて  夏山にもたれてあるじ何を読む   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「夏山」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(240頁)と第十八巻書簡一 明治二十八年(561頁)、第二十一巻 草稿ノート「病余漫吟」明治二十八年 夏」(64ぺ頁)に掲載されています。

この俳句の背景は子規自身が河東秉五兄(碧梧桐)宛書簡に詳細に書かれています。(7月22日付)。

「拝啓 御在神中は一方ならぬ御看護にあづかり御厚志の段奉謝候
 虚子より承候へば御帰京後御病気の由容体によりては入院の上御療治ある方後来のため よろしきかと存候 竹村尊兄へも其事申上置候 兎に角にふぐり大事と御保養可被成候
 地図四枚落掌御手数奉謝候 近来同図は版磨滅致し候へども新地図は多少の修正ありて 鉄道線路など大方出居候は愉快に存候
 小生は多分明日退院と決定致居候 併し天気都合にて延引いたすべく候
 一昨日より散歩をはじめ昨日は無始無終楼上に半日をくらし申候 主人扇を出して一句 をと請はれて病筆ふるへながら 
   夏山にもたれてあるじ何を読む  
 など即景を興し申候 御一笑にそなへ候
 小生近来来雲百句をはじめ候 一首々々の苦吟却て興味多く覚え候大略 怱々
  七月二十二日
   秉五兄 几下 

 すべては子規の碧梧桐宛書簡書簡に尽きるが、若干の説明を付しておきたい。

 明治28年7月21日に神戸病院に友人の竹村鍛(きとう)を訪問した時の句であることがわかる。竹村鍛は河東秉五兄(碧梧桐)の実兄で、当時神戸に住んでいた。竹村の漢詩文の号は錬卿(れんきょう)であった。
 当日、人力車で虚子とともに鍛の家を訪ね半日を過ごす。その節に、鍛が扇を出して子規に一筆書いた句が「夏山にもたれてあるじ何を読む」である。

 夏山は窓越から見える六甲山系であろう。子規は二十四日に神戸病院を退院そて須磨保養院に移った。8月20日須磨保養院を退院、25日松山へ帰り湊町4丁目の大原恒徳宅に入る。漱石の寄宿していた「愚陀仏庵」に落ち着いたのは27日からであった。                             」   

子規さんにあやかって一句
  
   
 「松山中学校明教館にて   城山にもたれて子規子夏季講話  子規もどき」 道後関所番
平成28年5月      母の東へ帰りたまふに  「この二日五月雨なんど降るべからず   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年5月の句は「母の東へ帰りたまふに この二日五月雨なんど降るべからず  子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「五月雨」(夏)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 夏」(235頁)と第二十一巻「病後漫吟 明治二十八年夏」(62頁)掲載されています。なお「病後漫吟」では、前書きが「母の東帰し給ふに」と簡略化されている。

明治二八年日清戦争従軍からの帰国途上の五月十七日「佐渡国丸」の船中で喀血、上陸後「神戸病院」に緊急入院。六月四日、東京から母八重と碧梧桐が到着、子規とともに看護に当たる。

六月二八日、八重は松山に三年振りに帰郷、七月九日、松山から戻った母は碧梧桐と東京に帰る。根岸の自宅に戻る母を気遣って、家に着くまでの二日間は五月雨が降らないでほしいという思いが切々と伝わってくる。

ちなみに官報に記載された「東京の天候」によれば、七月八日は快晴、九日は晴れ、十日は快晴、十一日、十二日は雨であった。まさに子規の願いを天が聞き届けてくれたようだ。

子規さんにあやかって一句
  
   孫の旅立ちに
 「新学期地震なんど起こるべからず  子規もどき」 道後関所番
平成28年4月  「世の中は桜が咲いて笑ひ声   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年4月の句は「世の中は桜が咲いて笑ひ声   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「桜」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(205頁)に掲載されています。

この年、桜の句を六十句詠んでいます。
 
  吉原  二句
うちかけや一かたまりの桜散る
うちかけの並んで通る桜かな
  従軍の首途に
いくさかな我もいでたつ花に剣
  金州にて
故郷の目に見えてたゞ桜散る
  松山龍穏寺
めづらしや梅の莟に初櫻
 
 龍穏寺の桜は「十六日桜」として松山では著名である。河野家の菩提寺のひとつでもあり当家の旦那寺でもある。昭和20年7月の松山大空襲で焼失したが檀家が殆どなく本堂の再建が叶わなかった。隠居寺であった「西禅寺」が残された宝厳寺の檀家の面倒をみている。

 子規が詠んだ句は、東京とすると上野の桜か小金井の桜かもしれませんが、少年の日の松山城か道後公園、石手川の桜かもしれません。日本人にとって桜は「国花」だし、それぞれに桜の名所が心象として残っているのでしょう。

 学生時代、会社員時代には「同期の桜」を肩を組み合って歌い、やがて「散る桜残る桜も散る桜」の心境で戦友たちと別れを告げたことが思い出されます。

「世の中にたえてさくらのなかりせば春のこころはのどけからまし」在原業平
「願わくば花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」西行法師

 毎年、松山神社、常信寺、道後公園、石手川公園、松山城公園(城山)で花を愛でながら弁当を食べ、夜桜を眺め、そして拙宅の庭の桜も照明をつけて近所の人と花談義をしています。まさに、桜咲いての笑い声が続きます。

子規さんにあやかって一句
   
 「東北は桜が咲いて笑ひ声     子規もどき」 道後関所番
平成28年3月  「何として春の夕をまぎらさん   子規 」

子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成28年3月の句は「何として春の夕をまぎらさん   子規」です。

明治28年(1895)の作品で、季語は「春」(春)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木 巻四 明治二十八年 春」(170頁)、第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟 明治二十八年春」〔附明治二十八年俳句草稿補遺〕(134頁)に掲載されています。

詞書きは「独居恋」です。「独居恋」は『広辞苑』には載っていません。「独居」はひとり住まいのことで、今日では「独居老人」が話題になっています。この句の場合が「独り居」の意味です。「ただひとりでいること。狭衣物語4「かかる独り居し給ひつつ身を焦し給ふ事」(『広辞苑』)

句の解釈としては、春の夕べに独りで過ごしていると恋しいひとのことが思い出されて、どのように気持ちをまぎらせてよいのだろうかということでしょう。まさに「狭衣物語」そのものの世界でしょう。古典的な陳腐化した俳句と言えるでしょう。

もっとも、子規さんを対象に考えると、具体的に誰を想って詠んだ句かということに興味が湧きます。詩人 堀内統義さんの『恋する正岡子規』(創風社2013)には何人かの恋する女が描かれてはいますが、それとも・・・・・

春の愁いといえば、与謝蕪村の「愁いつつ岡に登れば花茨」を思い出します。この句の季語は「花茨」で「夏」ですが、「春愁」のことばが初恋や幼恋に結びつきます。幼稚園や小学校の女先生との別れ、中学校、高校での女友達との別れもきまって「春」でしたし、卒業から進学、就職までの無為の日々は愁いの日々でもあったようです。いやはや。

もっとも明治28年春といえば、親友であり夏目漱石が松山中学に赴任した時期でもあります。漱石を想ってとも考えられないこともありませんが、ここでは[幻のひと]としておきましょうか。

子規さんにあやかって一句

 独居老  
 「何として独りの春をまぎらさん     子規もどき」 
アーカイブ 「子規記念博物館懸垂幕子規俳句」 検索

/miyoshik/nigitazu/nigitazu27.htm